トニー・パーカー:私の夢のすべてを超えて

2020年11月17日に出版された著書「トニー・パーカー:私の夢のすべてを超えて」より抜粋。NBA入りに向けた戦略的な計画から、スパーズとの出会い、ポポビッチとのコネクションまで、トニー・パーカーのNBAキャリアの始まりに関する濃密なエピソードが導入部分としてまとめられている。

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“Tony Parker: Beyond all of my dreams”(HOOPSHYPE)

結局、パリでの2年目のシーズンは、若い選手が集まり、良いシーズンを過ごすことができた。プレイオフに進出したもの、素晴らしいチームだったASVELの前に敗退した。MVP投票では3位になった。18歳の時のことだった。

当時、パリで3年目をプレイし、MVPを獲得し、その後で去ろうかなと考えていた。しかし、エージェントのマーク・フレイジャーから電話があって、「今すぐNBAのドラフトにエントリーするんだ。お前は1巡目で指名されるはずだ」と言った。

戦略的な決断だった。もし、本当にドラフトにエントリーしたら、1巡目の最後に選ばれるだろうと自分に言い聞かせていた。それはつまり、良いチームにドラフトされるだろう、ということだ。前のシーズンに最悪の成績だったチームがトップの指名権を獲得するからだ。当時、NBAチームの多くは安全策を講じ、アメリカの大学を卒業したばかりの選手を選ぶ傾向があった。ヨーロッパ出身のポイントガードを選ぶことを好んではいなかった。しかし、もう1年待って、たとえばフランスで国内の選手権でMVPを獲得しようものなら、最悪のチームにドラフトされ、そこで自分がプレイすることになる可能性があった。

父も私も、ドラフトについてはずいぶん勉強した。だから、1巡目の最後にドラフトされたほうがいいと思ったんだ。

ドラフトで1位になることは、私の目標ではなかった。フランク・ニリキナを見てほしい。彼はドラフトで8位で指名された。彼はフランスのトップ選手なのにもかかわらず、NBAでどんなチームでプレイしているだろうか。私はそれは望んでなかった。1巡目の終わりに良いチームにドラフトされたら、2、3年で自分の道を切り開けるようになるんだ。それはパリでも同じだった。NBAの歴史はよく知っている。トップで指名された場合にどういう歩みになるかも知っている。良いチームにトレードされるまでに4年もの時間を費やすこともある。それは私は望んでいなかった。私はタイトルを獲得するためにバスケットボールをしているし、自分のキャリアの大切な4、5年を失いたくはなかった。

ドラフトに先立って、私を指名する可能性のあるチームとワークアウトをする必要があった。まず、シアトル・スーパーソニックスはゲイリー・ペイトンの後釜を探していた。そしてボストン・セルティックスは私を本当に欲しがっていて、ドラフトの前夜にワークアウトをさせてくれた。オーランドはコーチのドック・リバーズが私を気に入ってくれ、ベイエリアではゴールデンステイト・ウォリアーズと一緒にトレーニングをした。これらのトレーニングは、最低でも2時間は行った。動きのあるショットや止まってのショットなど、あらゆる種類のショットを打ち、それに続いて1対1や2対2のゲームを行った。フランチャイズのスタッフがいて、ディフェンスも含めてすべてを分析していた。最後にはウェイトトレーニングもたくさんした。

2001年の間、私は異なる10チームと11回のワークアウトをした。それは大きかった。当時、ヨーロッパ出身の選手というのはさほど人気がなく、特にポイントガードは人気がなかった。6月10日から6月25日まで、練習のためにアメリカ中を回った。コーチ、GM、オーナーの前でプレイし続けた。午前中にちょっとしたセッションを行って、それから少しだけ街を散策する時間がある。それから夕方5時には飛行機に乗って、次の練習のために次の都市に行く。自分の存在を知らしめる必要があった。

バスケットボールに加えて、スパーズからは心理テストまで受けさせられた。たくさんの質問があって、いろいろな異なる状況について話し合われた。彼らは、私がさまざまな状況にどのように反応するかを知りたがっていた。バスケットボールの質問はほとんどなかった。その代わりに、主に人生、競争、嫉妬などについての質問があった。それを通して彼らは、私の個性について知り、私が彼らとマッチしているかどうかを確かめるつもりだった。結果は聞かなかったが、私を選んでくれたことを考えると、それなりに良かったのではないかと思う。

スパーズから28位で指名された時は、とても嬉しかった。その理由の1つ目は、自分が良いチームに加わることが分かっていたこと。2つ目は、彼らには良いポイントガードがいなかったこと。私にとっては完璧だった。また、私には一度しかチャンスがないことも知っていた。決めるか決めないかだった。良いチームにいる時は、成長したり、進歩したりする時間なんて与えられていない。悪いチームでは、プレイさせることがチームの利益になる。良いチームに所属していても、最初の数年で良いプレイができなければ、トレードされる可能性もある。私はNBAのトレードのことについては知っていたし、それを意識していた。すぐに良いプレイをしなければならなかった。

しかしながら、スパーズは私に不信感を抱いていた。ポップが初めて私を見たのは2001年6月、シカゴでのことだった。飛行機を降りてすぐにジムでのワークアウトに向かった。移動で疲れていたし、少し気落ちしていた。あまり調子が良くなかった。ポポビッチは、私が見せたパフォーマンスをまったく気に入らず、また会いたいとは思わなかった。幸い、GMのRC・ブフォードが私を強く推してくれた。

その2回目のワークアウトが、のるかそるかの勝負の時だった。私の気持ちも上がり始めていた。ポップは、なんとか自分を納得させて、2回目に会ってもいいと言ってくれた。2回目のワークアウトはサンアントニオで行われた。最終的には、ポップの気持ちは変わっていた。「28位で彼のような才能を指名することはできないだろう。おそらく、私たちが指名する前に、15位以内で指名されるだろう」と言っていた。サンアントニオは前のシーズンで5位につけていたため、ドラフトの指名順位は1巡目の終わりになっていた。彼は「28位でまだ残っていたら、絶対にお前を獲ろう」と言ってくれた。

その瞬間からはっきりと、サンアントニオに行きたいと思い始めていた。しかし、私が恐れていたのは、21位でセルティックスに指名されてしまうことだった。セルティックスには本当に行きたくなかった。彼らは良いチームではなかったから。

その2回目のワークアウトを終えて車に乗り込み、空港に戻る前に、少し街を見て回ろうとした。父親に電話して、「父さん、どうしてもサンアントニオでプレイしたいんだ。なぜかはよくわからないけど、ここの雰囲気が好きなんだ。街も素敵だよ。いくつか良さそうなアパートも見つけたんだ。ここに住むことになるかもね」。ドラフトの1週間前のことだった。

私はポップと同じように、セルティックスが私を選ぶと本気で思っていた。セルティックスはドラフトの数日前、私を一人呼んでプライベートのワークアウトの機会を作った。21位で私を指名すると断言していたんだ。しかし、当時のNBAにはヨーロッパ出身のポイントガードなんていなかったし、フランチャイズはそのリスクを冒したくなかったんだと思う。結局、私は28位指名まで落ちて、スパーズに連れていかれたんだ。

あのドラフトの夜は笑えた。ドラフト当日の夜、私は父とエージェントと一緒に席に座っていた。各チームの指名は5分以内で行われる。21位指名が発表される5分間が始まったとき、NBAで働いていたクリーシーという女性が私のところに来て、セルティックスの帽子を差し出した。彼女は「トニー。ボストンがあなたを指名するわ。降りてきて」と言ってきた。私はセルティックスの帽子を片手にステージへ降りていったけど、発表まで3分を切ったところで彼女が言ったんだ。「セルティックスは気が変わったんだ。上に戻っていいわよ」と言った。その後わかったのは、ボストンのGMとコーチは私を欲しがっていたけど、オーナーが怖くなったということだ。「ヨーロッパのポイントガードはダメだ。危険すぎる!」。代わりに、ノースカロライナ大でプレイしたジョー・フォルテが指名された。

改めて席につき、スパーズは28位で私を手に入れた。彼らは私を手に入れるために、トレードを使ってドラフトの指名順位を上げることを1時間も考えていたんだ。ポップが言うには、彼らは私を手に入れたことをとても喜んでいて、ワイルドなパーティーを開いたそうだ。それは1997年のティム・ダンカン・ピック以来の最大のパーティーの一つだったらしい。指名された数分後にポップに電話したとき、私は単純に彼に言った。「私を獲らなかったことで他のすべての人に間違いを犯したことを示すつもりだよ」。

スパーズに指名された時、何となくお互いを知っているような印象を受けた。スパーズとは2回のワークアウトをした後、短いランチを一緒に食べて、いろいろと話し合った。ドラフトの後、ソルトレイクシティーのサマーリーグに参加した。そこにはアシスタントコーチのマイク・ブラウンだけがいた。ポップは来ていなかった。私にとってのNBAでの初めての試合。到着してウォーミングアップをし、マイク・ブラウンに会いに行った。

「マイク。なぜポップがいないんだ?」

「彼は忙しいんだ」。

それに傷ついたのは、認めざるを得ない。私は彼のチームの将来のポイントガードだったし、マイク・ブラウンは私が初めてのサマーリーグの試合でプレイしているのを見ても、気にもしていなかった。最初の試合、この試合を自分の胸に刻むんだと自分に言い聞かせていた。

私は29得点、8アシストを記録した。後日、マイク・ブラウンは試合後にポップに電話して、「次の15年間のポイントガードを見つけたよ」と言ったそうだ。ソルトレイクでのプレイを必ず見に来てくれ」と伝えたそうだ。

次の試合の日、ウォーミングアップをしていたら、ベンチに誰がいたと思う? ポップさ! マイク・ブラウンを見ると、満足そうに微笑んでいた。 「ああ、やっぱり来てくれたんだ」。マイク・ブラウンとの電話の後、ポップはすぐに来てくれ、私の準備が整うのを1シーズンも2シーズンも待たずに、すぐにプレイさせることを理解してくれた。彼は自分の目で私のプレイを見に来てくれたんだ。

ソルトレイクでの1週間はすべてがうまくいった。サマーリーグの間、私は最高のポイントガードだった。その後、チームのレギュラーキャンプに行った。別世界だった。シーズンに向けてのトレーニングの始まり。年上の選手たち皆に会った。そこで初めて、ティム・ダンカンを見たんだ。印象的だった。ロッカールームにこもっていたら、皆が来たんだ。私は「まじかよ!」と思った。ティム・ダンカンもいるし、デビッド・ロビンソンもいる。腹をくくらないといけないと感じた。ここはもうパリ・サンジェルマンではない。「お前は今、NBAにいるんだ」。

明らかに、何でもないかのように振る舞ってみたが、本当に心の中では感動していた。デビッド・ロビンソンは弟のお気に入りの選手だった。数年前に彼がナイキ・エアフォース・ツアーでフランスに来た時、彼が弟を空中で抱き上げてくれた姿が今でも目に焼き付いている。私たちはサインをもらうために、群衆の中に紛れ込んだ。チャールズ・バークレーとスコッティ・ピッペンもそこにいた。私たちはそこにいて、目を開いて、彼らのプレイを見ていた。気がつけば、ロッカールームで目の前に、生身のデビッド・ロビンソンが座っていた。彼らはロッカールームで喋っていた。私は何も言わなかった。私は見て、聞いて、そして学んだ。それが私の1年目の始まりだった。

コートに入ってボールが弾めば、すぐにゲームモードに入った。私の競争心はすぐに再び目を覚まし、相手が誰であろうと気にしなかった。私はただ、自分がNBAでプレイできることを見せつけたかった。

私にとって最も重要なことは、ポップとダンカンに私がここにいるに値することを示すことだった。ダンカンの自分に対する疑念は自覚していた。スパーズが私をドラフトしたとき、彼は「なぜヨーロッパ人のポイントガードをドラフトするんだ? ヨーロッパ人のポイントガードではタイトルを獲れないだろう」と言っていた。

2000年代の初め、タイトル獲得を目標にする場合、NBAではアメリカ人以外の選手をポイントガードに起用するのはリスクが高いという定説があった。ダンカンのようなスーパースターがいるチームがヨーロッパ人のポイントガードをドラフトする場合は、非常にリスクが高かったことだろう。彼らにとって、私はヨーロッパ人プレイヤーが大成するかどうかの最初の試金石だった。例えば、マヌ・ジノビリが25歳でNBA入りした時、彼はすでにユーロリーグで優勝していて、実績のある選手だった。私の場合は、すべてがこれからだった。

私はフランス語のなまりが強かったものの、幸いにも英語を流暢に話すことができ、すべてを理解できた。それは大きなアドバンテージだった。ポイントガードとして、スタッフやチームメイトと簡単にコミュニケーションが取れたことは、チームに浸透していくプロセスを加速させた。当時の私は、スパーズの文化をすべては理解していなかった。スパーズが私に大きなチャンスを与えてくれていたことも理解していなかった。私は、彼らは私に才能があることを知っていて、彼らが求めるように私をスパーズ色に染め上げられると思っていたから、私を指名したんだと自分に言い聞かせていた。

私のキャリアを通してずっとポップは、私とジョン・ストックトンの違いについて話してくれた。ジョンは頭脳的なポイントガードで、私は攻撃的なポイントガードだった。ポップの目標は、私をちょうどその真ん中に近づけることだった。練習初日から「ジョン・ストックトンのような選手にはなれないだろうが、バランスの取れたポイントガードになるために、真ん中に近づくよう努力しろ」と言われていた。真のポイントガード、真のリーダーになる必要があることは認識していた。バスケットボールは決して、ただショーを見せつけて相手を倒すだけのものではないから。■

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JJ
I Stan Basketball. / Started watching NBA since 2003 / A Big Fan of LeBron & Lakers / An Alumnus of University of Tsukuba / An Editor / A Blogger

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